出身高校:杉並学院高校
パラリアを知る前の状況・悩み
高一の冬に入会したのですが、その直前に病院でADHDの診断を受けていたんですね。
元々他の人との間にズレを感じることは多かったのですが、診断をきっかけに「そういったズレとどう向き合っていけば良いのか」ということを考えていました。
パラリアを知ったキッカケ&入会の決め手
すでに通っていた友人に強く誘われて、パラリアを訪れました。最初はちょっと胡散臭いかなと思うところもあったのですが、友人の勢いに押される形でいつのまにか入会していました。
パラリアで印象に残っていること
僕は高二の頃、家を出ても学校に足が向かわず休みがちになっていたのですが、かといって家にも戻れないので、代わりに通い放題だったパラリアに行っていました。昼間から外を歩いてると補導されたりもしますし。
学校に馴染めなかったことで、「自分はうまく社会に参加できないのかな」と悩んだりもしたのですが、パラリアはそんな自分を受け止め、また普通とは少し違った見方や価値を提示してくれる場にもなってくれたことがありがたかったです。
僕にとって、家でも学校でもない、
いわゆるサードプレイスといわれる存在だったと思います。
パラリアに入って自分がどう変わったと思うか
いろいろありますが、一番はさっきいったことと関連して、サードプレイス的なものの大事さを意識するようになったことです。自分にとっても、他人にとっても、そういった場を大切にしたいと思うようになりました。
大学入学後に頑張っていること&パラリアが活きていると思うこと
大学入学後、僕は政治的な活動に取り組む学生と関わる機会が増えたのですが、彼らは社会問題を根本的に解決するためには社会構造全体を変革しなければならないという発想が強かったんですね。
自分は、それも大事だけれどいま困っている人の問題の個別具体的な解決ことに力を入れることも重要だと感じ、考えが対立しがちだったんです。そういった思いから、インターネット上で実際に困っている人と繋がって相談に乗ったりもしていました。
また、大学入学直後は、よく自分が書いた文章を先輩や大学の先生方に見てもらっていたのですが、それをきっかけに目をかけてもらった教員の方に誘われて、東日本大震災の被災地である南三陸を訪れる機会がありました。
そこで特に印象に残っているのは、津波の被害にあった学校をそのまま残している震災遺構と、震災関係の写真を展示している写真展でした。どちらもとても強い印象を受けたのですが、前者が行政の支援を受けて組織的に運営されている一方で、後者は個人の写真家の方が一人で運営している場所で、それを考えた時に、直感的に自分がやりたいのは後者だと感じました。
以上、いろいろと述べましたが、これらの経験をどう総括するかという時に、パラリアでの経験が役に立ちました。
先ほどお話ししたサードプレイスとしてのパラリアに救われたのもそうですし、また在籍中、講師の木元さんから色々な話を聞いたというのも大きいです。
特に、福田恒存という文学者の『一匹と九十九匹と』という文芸批評の話であったり、サリンジャーの『ライ麦畑の捕まえ手(The Catcher in the Rye)』についての話は非常に印象に残っています。
具体的に前者について話しますと、そこで福田恒存は新約聖書のなかのイエス・キリストについての逸話を参照しています。イエスが百匹の羊を連れていて、一匹がはぐれてしまったとき、イエスは大多数である九十九匹の方を置いて、一匹を探しに行ったという話なのですが、福田はこれを引きつつ、「政治と文学」の役割分担を論じました。簡単にいってしまえば、九十九人を救うのが政治であり、それでは救えない一人を救えるかもしれないのが文学であるというわけです。
大学に入ってから、政治的なサークルでいくつかの対立を経験し、また被災地の視察などを通じて感じたことを、この視点から捉え直してみると、それは、自分はやはり個別具体の個々人の側に立ちたいということ、つまり、「文学」をやりたいということだと思いました。
その結果、いまでは自分の方向性を広い意味での「文学」に定めて、例えば、映画の脚本の学校に通いつつ、いろいろと書いたりしています。
10年後の将来像
「2020年代は小阿瀬達基の一人勝ちだった」とか言われるくらいのことがしたいなと思っています。
さいごに
自分としては、以上で述べたように、パラリアを通じて、救われたと思う部分もあり、また、自分の人生の方向性をある程度、定めることができたと思っています。
家でも学校でもない、何か〈他なるもの〉と出会える場所として、一度、門を叩いてみるとよいかもしれないです。