講師紹介 – 浅見 貴則

浅見 貴則
東京工業大学工学院 経営工学系 博士課程5年
株式会社PARARIA 代表取締役社長

浅見貴則

私立の進学校で落ちこぼれた現役時代


中学受験をして、私立の中学校に入学後、中学までは成績が良かったです。

しかし、高校1年の秋あたりから、徐々についていけなくなりました。

テスト勉強はいつも一夜漬け。それでもこれまではいい点が取れていました。

自分の勉強のやり方に自信がありました。

しかし、そのやり方では対応できないレベルにきていました。

部活を週6でやっていた自分は、「部活が終わって時間ができれば、しっかりと偏差値を上げることができる」と信じ切っていました。

その時は、中学3年時に65だった偏差値は、50まで落ちていました。

それでも自分に「自分はやればできる」と言い聞かせていました。

部活を引退し、1日中可能な限り塾に引きこもり、家に引きこもり、一切休まずにすべての時間を勉強に捧げました。

それでも成績は全く上がりませんでした。

周囲の人は、私のことをとても励ましてくれました。

「頑張っているから絶対に上がる」
「昔はできたんだから、きっとまたできるようになる」

その言葉が嬉しくて、やってもできない自分を信じたくなくて、上がらない現実を受け止められなくて、そのままがむしゃらに勉強し続けました。

その結果、目標だった東工大はおろか、早稲田も慶應も理科大も横浜国立大学も落ちました。

前日に対策した化学の範囲がすべてそのまま出るという幸運のおかげで、青山学院には合格することができました。

結局自分は、部活を終えてからも全く偏差値を上げることができず、最後まで50のままでした。

本番でできなくて初めて現実に向き合い自己否定


「頑張っているから本番は大丈夫」という周囲の言葉にしがみついていた私は、落ち続けて初めて受け入れました。

「自分は勉強のセンスが本当にないんだ」と。

受け入れざるを得ませんでした。

自分はどうしようもなく頭が悪いと、自分に言い続けました。

失意のうちに、それでも勉強が嫌いだった私は、浪人してもう一年勉強することを決意することはできず、しぶしぶ青学に進む寸前までいきました。

決め手になったのは、秋で早々にその年の受験を諦めていた医学部志望の友達です。

その人から、「いいじゃん、青学で」と、軽く言われた途端、どうしようもない気持ちが沸き上がってきました。

「絶対に見返してやる。必ず東工大に合格する」

友達の軽い言葉以上に、自分を諦めていた自分に無性に腹が立ちました。

入学のためのお金を支払っていた両親に頭を下げ、いきなり浪人することを決意しました。

小さなプライドがなくなり周囲からなんでも吸収できるようになった浪人時代


自己否定を経て、自分の勉強法を初めて疑えるようになりました。

「現役の時のやり方はすべて間違っている」と信じることから始まりました。

当時ギリギリ存在したインターネットで、各科目の勉強法を調べ尽くしました。

視点は「自分が現役の時にやっていなかったこと」

そうして各科目、いつまでにどの教材をどこまでやるか、3月のうちにすべて決め切りました。

私はロクに考えもせず、大手予備校で浪人することにしました。

予備校の授業は受けていましたが、それに追加して、全科目で市販の問題集にも取り組んでいました。

理由を一言でいうと、リスクを分散させるためです。

予備校の授業だけをやって上がらなかった時に、予備校のせいにするのが嫌でした。

一方で、自分で選んだ参考書と、自分で決めた勉強法で上がらないことも十分考えられました。

現役の時と同様に、自己中心的な勉強で終わってしまう可能性もあり、それも嫌でした。

そのため、予備校の授業に加え、全科目で市販の問題集もこなしていました。

両方から学べば、両方がそれぞれ多少間違っていても、合格できるレベルに到達するのではないかと思いました。

基準を限界まで引き上げてくれた師匠との出会い


その大手予備校の、私が行っていた校舎にしか存在しなかった数学の先生がいます。

その先生は昔、東大コースだけを教えていたご年配の先生で、今では私が行っていた校舎の数Ⅲの授業しか持たない先生でした。
(現在では定年退職されており、その先生の授業を受けることはできません)

先生は非常にこだわりが強く、授業はひどいものでした。怒鳴り散らすし板書は読めない。校舎長も扱いに困っているようでした。

生徒からの人気は大きく分かれました。嫌う生徒の方が圧倒的でした。

しかし、その先生の数学に対する考え方は、私にとって衝撃でした。

模範解答以上の解法を連発し、しかもそれはその問題に限ったことではない、非常に一般的な考え方をもとにして解かれていました。

今までの私では考えられないスピードで、次から次へと答えを導く様を見せつけられました。

模範解答を遥かに凌駕する短い答案をこれでもかと示してくださいました。

周囲の学生は、先生の授業スタイルやこだわりが強い性格を嫌っていましたが、私はこの先生の数学の考え方を学びたいと強く思いました。

金曜日の午前中、授業をしたらすぐに帰ってしまう先生を捕まえ、考え抜いた問題を質問し続けました。

はじめは「数学はⅢしか教えない。ⅠAⅡBは難しいから」と言われていました。

しかし、どうしても先生からⅠAⅡBも学びたいと考え、様々な問題を考え抜いて質問しては、授業では話してくれなさそうな数学の話を少しずつ聴いて学びました。

先生が手元で書いていた、もはや何と書いてあるかわからないメモをすべてもらって帰り、家で一つ一つの走り書きを見て、何かを得られないか考え抜きました。

いつの間にか、数学に対する考え方が現役時の自分とは比べ物にならないほどクリアになり、普段の勉強における「できるようになった」の基準が、周囲と大きく違うものになりました。

先生とのこの時間がなければ、私は東工大に合格できなかったと強く思います。

先生から高い基準を教えてもらうたび、先生以外の授業の受け方がどんどん変わっていきました。

最終的に、「授業の教材は授業中にしかやらない」という状態にまでなりました。
(具体的な方法は省略)

結果がついてきてはじめて見えてきた「合格」

3月末から勉強を再開し、5月の模試からすでに結果は出ていました。

先生のご指導や勉強に対する考え方等、多くが現役時とは大きく異なっていました。

明確にどれが要因とは言えませんが、5月ですでに結果が出るようになっていました。

現役時代と大きく違ったのは、「手ごたえと実際の結果のずれがなくなったこと」でした。

模試を受けた直後の体感として、例えば数学では

「数学は●●点だろうと思う。
この問題はいつこの教材で勉強したものだから絶対合っている。
この問題は途中までは、似たような問題をやったことがあるからここまではとれている。
最後の問題は見たこともないし似たような問題もやったことがないからできない・・・・」

というように、自分はなぜこの問題ができて、なぜこの問題で苦戦して、なぜこの問題が解けないのかがとてもクリアになりました。

ここまで見えるようになって初めて、「反省」ができます。

これまでの勉強法のどこにまだ足りない部分があって、そこをどう直せば点数に繋がるのかがすべてわかるようになりました。

秋の模試でも成績は衰えず、11月の東工大模試の結果がよかったので、志望を4類に上げました。

本番で結果を出すことにこだわり続けた

私はプレッシャーに弱い自覚がありました。

どれだけ学力があっても、本番で発揮できなければ全く無意味だということをとても意識していました。

そこで、本番で学力以外が原因で負けることを防ぐため、主に数学において

  • 計算ミスがないかを探す練習
  • 写し間違いがないか探す練習
  • 必要最小限の計算で答えを出す練習
  • 採点者が読みやすいように答案を書く練習

を全部実行しました。

学力以外の面でこれだけできない自分を目の当たりするのは、とてもつらい経験でした。

これらをすべて対策したからこそ、本番の安定感につながったと感じています。

最終的に全勝


できる限りの準備が整ったのが11月末でした。

その後はできる限りストレスをためないよう適度に休み、適度に勉強は続けました。

気になる教科、分野が見つかるたびに、その分野にだけ徹底的に集中し、不安がなくなるまで復習しました。

「たとえ緊張していても満点が取れるレベル」を目標に勉強していました。

そのため試験本番は、緊張した大学(理科大・慶應)もあり、あまり緊張しなかった大学(上智・早稲田・東工)もありましたが、結果的に全勝することができました。

現役の時の自分に、どんな声をかけてあげれば良かったのだろう


浪人して成績が上がった私は、大学入学後もずっと考えていました。

「現役の時の自分がうまく気づけば、現役の時からしっかり成績が上げられたのではないか」

この疑問を持ち続けている私は、大学入学後すぐに塾講師をはじめ、自分のような現役生に少しでもプラスの存在になろうと、さまざまな塾に顔を出すようになりました。

「現役の時の自分に、どんな声をかけてあげれば良かったのだろうか」今も昔も、ずっとこの気持ちを持って、試行錯誤を繰り返しています。